takminの書きっぱなし備忘録 @はてなブログ

主にコンピュータビジョンなど技術について、たまに自分自身のことや思いついたことなど

父のこと

今年の1月14日に父が亡くなり、昨日、百箇日で父のお骨をお墓に納めました。享年78歳でした。
本当はFacebookに報告として書くに留めようかとも思ったのですが、インターネットの片隅に父の記録を残しておきたいと思い、ここに関係者への報告も兼ねて少し父のことを記しておきます。


父の膵臓癌が見つかったのは去年8月。高熱を出して救急車で運ばれ、胆管炎とその原因となった膵頭にできた癌が見つかりました。私も母からメールで伝えられ、大きく動揺したのを覚えてます。父は人一倍健康に気を遣う人だったので、最近少し体力が落ちてきたようだけど、まだまだ大丈夫だろうと考えていました。
それから約5カ月、父は持ち前の前向きさで自分で病気について調べたり、体力を落とさないために歩いたり、最後まで治療をあきらめず、生きようと懸命に努力をしていましたが、最後は自宅であまり苦しまず、気づいたらふっと息を引き取っていました。


お墓は父の実家が遠いこともあり、父の希望で都心にあるコンピュータ制御の機械式納骨堂を探しました。今後子供や孫たちが、海外も含めどこで働くかわからないだろうことを見越し、お墓の管理を簡便にした方が良いだろうという配慮からでした。

 


このように、父は最後まで努力家で、前向きで、先進的で、家族思いな人でした。


父は「子供に教育費の心配はさせない」、「お前たちに財産は残さないが教育は残してやる」が口癖で、実際二人の息子は親不孝にも、そろって私立高校、私立大学、大学院と親の金で進学させてもらいました。また終身雇用当たり前のバブル期に、息子たちに「食いっばぐれないだけの力をつけろ」と教育してきました。僕がリストラされたり、社会人博士に進んだりしながら、今一人で会社やりながらもなんとか食べていけてるのは、間違いなく父の教えの賜物だと思います。

 


父の実家は、元々地元では裕福な家だったのですが、戦後の農地解放で財産を失い、貧乏しながら非常に苦労して大学まで進学しました。
卒業後大手メーカーに就職し、「つぶしが効きそう」的な理由でコンピュータ関係の技術職につき、課長になるまで勤めました。しかし会社の上司とそりが合わなかったり給与の安さが不満で、終身雇用当たり前の時代に大手メーカーを辞め、紆余曲折あってベンチャー企業に転職しました。当時は機械にどんどんコンピュータが入り込んでいた時代で、そのベンチャーでコンピュータ制御を取り入れた工場機械を提案/開発していき、会社を店頭公開にまでもっていきました。この当時の仕事は面白くて仕方なかったそうです。その後仲間と会社を始めるなどしましたが、バブル崩壊など色々あって、最後は今の私と同じように個人会社を経営し、受託業務などをしていました。


そういう父なので、僕がリストラされてベンチャーへ転職したり、ブラック会社を辞めたり、社会人博士に進んでも、会社の規模とか知名度とか、そういうものに惑わされず、いつも僕のキャリアを応援をしてくれてました。


僕には四歳の息子がいますが、その息子と遊びながら、自分も父にこうやって遊んでもらったなあと昔のことを思い出したりします。僕も父を見習って「子供に教育費の心配はさせない」を我が家の家訓にしたいと思っていますが、そう思うほどに父の凄さを思わずにはいられません。

お父さん、本当に今までありがとうございました。お父さんの息子で本当に良かったです。